Powered by Six Apart

読書歴

« 大牟田の美味しい店 追加 | メイン | 太宰府歴史散歩(追補) »

2011年12月 7日 (水)

大宰府歴史散歩

 2009年10月高校の同期会を志賀島で行いました。その時のoptional tourの「大宰府歴史散歩」のガイドを務めました。この時作成した案内の冊子をアップします。
光明寺  鎌倉時代中期、鉄牛円心により開創された。  宋から帰国した聖一国師の前に天神様が現れ、禅の教えを請うた。そこで宋の仏鑑和尚を紹介したところ、宋に飛び禅の教えを受けて(渡宋天神)、再び国師のもとへ現れ悟りの証しの僧衣を国師に預けた。国師のあとを継いだ博多の承天寺の二代目住持の鉄牛和尚が天神様の願いを容れて、伝衣塔を建て僧衣を祀ったのが光明寺の起こりということです。伝衣塔は光明寺の横にあります。  現在は臨済宗の寺です。  庭が有名で前庭は仏光石庭といわれ、奥の庭は一滴海庭といわれています。こちらは、秋の紅葉、春のしゃくなげが美しい。  ちなみに光明寺の前を流れる溝は藍染川という麗しき名前をもっています。能の「藍染川」で梅壺侍従が身を投げたという川です。また伊勢物語にも登場するそうです。
081115fh010028gr1s
081115img_0243ps_4
太宰府国立博物館  平成17年10月16日開館しました。常設展示の文化交流展示室のテーマは「海の道、アジアの路」でとても見ごたえがあります。残念なのはスーベニア・ショップが貧弱なことです。
0975img_0385ps
太宰府天満宮  昌泰4年(901年)菅原道真は太宰権師に左遷され、府の南館(今の榎社)に幽閉され、延喜3年(903年)亡くなりました。遺言により牛車に乗せて運んだところ、牛が動かなくなり、そこに埋葬し墓とした場所が本殿といわれています。 鬼すべ(1月7日夜)、鷽替え神事(1月7日夜)、曲水の宴(3月第一日曜)、神幸式(9月22日23日)など優雅な神事が有名です。
061021fh000016_r2
08518fh000008t2
05925fh000023r2
0975img_0377ps
朝日地蔵(旭地蔵)  鎌倉時代に横岳崇福寺という寺を、湛慧が建立し、聖一国師も住し、大応国師(南浦紹明)が開山となった。豊臣秀吉の九州征伐(島津征伐)の時炎上し灰燼に帰した。江戸時代に黒田家により博多の千代町に移して再興し、今に至っている。九大医学部の近く。 湛慧がちょうど観世音寺の鬼すべの日に寺の前を通りかかったとき、捕まり鬼すべの鬼にされてしまった。僧でありながら鬼にされたことを恥に感じ、この場所に穴を掘ってそのなかで息絶えたと伝えられている。里人がそこに地蔵を祀り朝日地蔵と呼び今日まで参詣者が絶えない。ここの地蔵尊を分霊し博多の崇福寺にも旭地蔵として祀っている。
0975img_0393ps
観世音寺 天智天皇が母斉明天皇追善のため発願して作られた寺です。実際に出来上がったのはそれから80年くらいたった天平18年(746年)だそうです。沙弥満誓(万葉集や百人一首でもしられる)が造観世音寺別当として起用されました。完成時の別当は僧玄昉でしたが、落慶法要の日に藤原広嗣の怨霊に取り殺され首は奈良興福寺の庭に落ちていたという伝説があります。観世音寺の近くに玄昉の墓とされている一角があります。 庭には満誓の「しらぬひ 筑紫の綿は 身につけては いまだは着ねど 暖けく見ゆ」という歌碑があります。 観世音寺の梵鐘は京都妙心寺のものと兄弟鐘と呼ばれ、日本で一番古い鐘(698年)といわれています。菅原道真の「都府楼はわずかに瓦の色をみる 観音寺はただ鐘の音をきく」という漢詩で歌われている鐘です。また長塚節は「手をあてて鐘はたふとき冷たさに爪たたき聴くそのかそけきを」と詠んでいます。  源氏物語の玉鬘の巻に「・・・清水の御寺の、観世音寺に詣で・・・」という文章があるそうです。清水というのは当寺の北にある湧き水をさし清水寺と呼ばれていたこともあるそうです。また観世音寺の山号は清水山です。  宝物殿には立派な仏像が多数納められており一見の価値があります。
0975img_0398ps
0975img_0397ps
0981fh010033m3_hexanon50
戒壇院  観世音寺の完成から15年後の天平宝字5年(761年)戒壇が設けられました。東大寺、下野の薬師寺とあわせて日本三戒壇といわれています。江戸時代に観世音寺から離れ、博多の聖福寺の末寺となり臨済宗の寺となっています。  20数年前の住職は高崎山で猿の餌付けを始めた大西真応さんでした。
05925fh000002_r2
0975img_0399ps
0975img_0400ps_2
0975img_0401ps
学校院跡  太宰府政庁跡と観世音寺の間にあります。空き地としてまだ何も整備されていません。府の在庁官人(下級役人)の養成のために作られ、政治学、医学、算術のコースにわかれ学生数は200人を越えたといいます。  裏の道沿いに山上憶良の「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて安眠しなさぬ」「しろがねも くがねも玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも」の万葉歌碑があります。
0975img_0402ps
0975img_0403ps
太宰府政庁跡  遠の朝廷、都督府、都府楼などともいわれています。礎石と碑がある広場となっています。東側の丘は月山といい、漏刻(水時計)があったと考えられています。  近くには坂本八幡宮という神社があり、ここは太宰帥の官舎があったところと推定されています。周辺には大伴旅人の歌碑がたくさんあります。「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」「我が岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の 花妻問ひに 来鳴くさ雄鹿」「やすみしし わご大君の食す国は 大和もここも 同じとそ思ふ」
07211fh000001_gr1s
08320fh020003gr1s
08320fh020019gr1s
大城山(大野城、四王寺山) 政庁跡の奥に見える山が四王寺山で古代の朝鮮式山城(白村江の戦いの後水城などとともに設けられた)があります。山頂の周りは土塁と石垣で囲まれ山頂には倉庫群のあともあります。昔は大城山ともよばれていました。山上憶良の「大野山 霧立ち渡る 我が嘆く おきその風に 霧立ち渡る」大伴坂上郎女の「いまもかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 我なけれども」などの歌で知られています。現在は「県民の森」として親しまれています。
10117fh000003r2
水城  全長1.2km高さ13m土手です。外側(博多側)に幅60m深さ4mくらいの濠が内側(太宰府側)には幅10mの濠があったと考えられています。 大伴旅人が「ますらをと 思へる我や 水茎の 水城の上に 涙拭はむ」という遊行女婦との別れを歌った場所でもあります。
09418fh000037gr1s
【参考図書】 改訂 つくし風土記<br clear="all"/>

 つくし青年会議所編 太宰府歴史散歩<br clear="all"/>

 大野誠 創元社 画文集 太宰府 森弘子 長野ヒデ子<br clear="all"/>

 葦書房 太宰府発見 森弘子 海鳥社

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blog.bbiq.jp/t/trackback/554227/27567217

大宰府歴史散歩を参照しているブログ:

コメント

先生のブログのアップをいつも楽しみにしています。

2枚目の写真、すごくいいですね!

保存して、時々desctop の壁紙に使わせていただきたいと思います!

コメントを投稿